高山で生まれ育ったキリシタン大名

高山右近とは

高山右近ってどんな人?
高山右近は1552年、父・高山飛騨守、母マリア(キリスト教での名)の長男として、豊能町高山で生まれました。室町時代から桃山時代、そして、江戸時代のはじめの頃までを生き抜いた人で、キリシタン大名として有名です。
彼は戦国時代の優れた武将であるとともに、お城づくりの名人でもありました。また、茶人としても知られており、「利休七哲」(千利休の弟子の中でも優れた茶人)の一人と言われています。
志野と結婚。平和への想い
右近が17歳になった頃、高山親子は高槻城下に移ります。右近が21歳の時に父の後を継いで、高槻4万石の城主となり、豊能町余野の城主・黒田氏の娘、志野(キリスト教での名前、ユスタまたはジュスタ)と結婚します。そして、織田信長の家来となり、右近が治める領内に20余りの教会を建て、布教と平和な国造りに力を尽くしました。
歴史的偉人たちに
囲まれた波乱万丈な人生。
右近の人生を紐解くと、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を筆頭に、千利休、明智光秀、黒田官兵衛、前田利家といった有名な歴史的人物たちとの接点が浮かび上がります。
偉人たちにあるときは頼りにされ、あるときは愛され、そしてあるときは恐れられ。華々しく動いた時代の中で、今もなお愛され続ける武将のひとりなのです。
高山右近は「信念の人」。
家康をも恐れさせた魂の強さ。
突然のバテレン禁止令、家康からの国外追放令と、何度も迫害を受けた高山右近。心配した千利休からどんなに説得されてもなお信念を曲げなかったそうです。かたや国外追放するほど右近の信念を恐れた徳川家康。歴史の大きな歯車が、一人の男の信念でここまで動くものかと関心がやみません。
その一本気な性格ゆえ人望も厚く、英雄たちのカリスマでもありました。
側室が当たり前の時代に、
志野ただひとりを愛した。
大名は側室を持つことが一般的だった時代。右近はただひとり、高山ジュスタこと志野を生涯愛し続けました。
右近という強烈な個性が身近にあったためか、志野本人について資料が少ないのですが、よほどの強い結びつきと夫婦愛があったことが想像できます。
全国各地にある右近の像に比べて、志野と夫婦二人仲睦まじく並んである夫婦像は、豊能町高山にしかありません。
余野出身の志野と、高山出身の右近。やはり大事を成すには厚い内助があってのこと。右近と志野は、二人ひとつで歴史に名を残したのです。
※志野との名前は高山右近夫妻顕彰会で付けたおくり名です。「高山右近の生涯とキリシタン殉教」1986.9 著者:久保義明に「しの」とありこれをもとに志野としました。
01
豊能町高山
1522
右近生誕の地
02
宇陀市榛原の澤城
1559〜
父・が澤城の城主となり、家族・家臣団が洗礼を受ける
03
芥川城、高槻城預かり
1569〜
父・飛騨守が芥川城に入り、その後高槻城主となる。翌年右近に譲る
04
安土 セミナリヨ
1574〜
右近が高槻城主となり、京、安土、高槻に神学校(セミナリヨ)を建立
05
中国征伐 鳥取城
1581
信長の命を受け、秀吉の中国攻め布陣を調査、評価を得る
06
紀伊国亀山城(三重県)
1583
秀吉と勝家の信長跡目争いで、亀山城を坑道爆破させる
07
賤ヶ岳の戦い(長浜市)
1583
秀吉軍として合戦出陣。佐久間盛政に敗北。余野の武将等を失う
08
伊勢国・四国征伐
1585
秀吉の小牧・長久手の戦いに続き根来征伐・四国征伐に参戦
09
明石に国替え
1585
明石6万石に移封。船上城の築城
10
伴天連追放令
1587
秀吉の九州征伐に参戦。博多で伴天連追放令発令。右近領地没収
11
小豆島で家族と合流
1587
小西行長の領地小豆島で家族等と合流、その後肥後国に流転
12
肥後国に匿われる
1587
小西行長肥後国に移封。右近たちは天草方面に匿われたと伝わる
13
加賀藩 前田家の客将
1588〜
前田利家が秀吉に願い出て、右近一家は加賀藩の客将となる
14
石川県七尾の本行寺
1588〜
利家より2万石の知行を与えられ、その地の本行寺に逗留した
15
小田原八王子城
1590
右近の武功と牛肉鍋の逸話が伝わる
16
名護屋城での茶会
1592
文禄の役で名護屋城に居た秀吉に呼ばれ謁見。茶会
17
京の伏見城
1597〜
秀吉が京在住の拠点とした伏見城下に右近も在京の屋敷が許された
18
家康が禁教令発令
1614
利家補佐の充実した日々が一転、家康が禁教令を発布
出展:豊能町観光協会